つい先日、予定を済ませて帰路についたところでした。夕飯は何にしようか、とか思案していて、ふと品川神社のことが心に立ちました。実はそこの聖域が近頃不安定になっていて、神霊様の不在な時分が多くあって、想っては居ても参拝するまで出向くようなことは幾らか減りつつありました。
もう七時をまわっていました。これから来ないか、と言葉を受け取ったのは品川神社のことを考えてから一駅も経たない短い時間のあいだでした。僕は電車で過ぎる景色を、ゆっくりと眺めていたのです。
窓際で耽っていると、電車は普段降りる駅の手前で車庫に入るようで、そのようなアナウンスと共に、強制的に一駅手前で降ろされました。品川神社へ参拝するとなれば、然程遠くもなく、かといって行きやすくもないが、次の電車を待つ理由にはならなかったので、その一つ手前の駅から歩くことにしました。
休日の穏やかな時間とごった返すプラットフォームとが対照的で印象に残ったが、子供づれの夫婦や、カップルや、老夫婦などをかき分けて進む必要があったので僕は少し士気を高めるかのように力強く歩いていた。特段気にする必要もないかとは脳裏でうっすらと思いもしたが、アグレッシブな態度で挑まないと道を遮る全ての人に声をかけて通してもらうようなことになりかねないので、普段通りの無関心な顔を装った。
改札から出ると人気は少なく、鎧をおろしても良さそうな、気兼ねのない面持ちで先を急げそうだった。しばらく駅ビル内を横切る近道があるので、恋仲睦まじい男女の雰囲気を掻き立てるイルミネーションを見たり、レストランの本日のおすすめ料理の品書きを見たり、あゝ年末の忙しなさも人情に着眼していれば煩わしいものでもないのだなと考えながら歩いていた。
外へ出ると、ビル風に乗った目を覚ますような冬の冷たさに全身を包まれた。僕は、寒さの方が心地よく感じるので、ジャケットの襟を上げて、耳からイヤホンが落ちないように位置を直してからポケットに両手を入れて、わずかに笑みを、側から見れば愛想の良い顔立ちになったのだと思うが、浮かべ夜の中へのまれていった。
橋を渡り、坂を登り、住宅街を横断し、線路の上にかかる橋をまた渡り、二十分くらい歩いたところで品川神社についた。街灯よりも車のヘッドライトに照らされる時の方が、光が目にしみて苦い顔をせずにはいられなかったが、心は騒いでいなかった。携帯電話を機内モードにして、イヤホンを閉まうと国道沿いのうるささの中に静けさが聞こえた。正面の鳥居をくぐり、五十三段の階段を一気に登った。
昔から、正面鳥居から本殿前まで行くのに階段があろうが坂があろうが、歩みを緩めず、同じ速度で行くことがジンクスになっているのだ。ゆっくり休みながらでも、神霊様は気になさらないのだとは思う。手水舎があるが、今回は禊はしなくても良い、と直々に声をかけてもらえたのでそのまま本殿前でご挨拶申し上げた。
挨拶とはいっても、霊的なコミュニケーションなので事情を知らない人が見れば不思議な光景に映ると、気が散っていた。お元気ですか、とか、具合は宜しいのですか、とか尋ねていると優しい風が吹くと同時に健やかそうな返答が聞こえた。
暫くすると後ろから人の近づく気配を感じた。カップルがジョギングついでに参拝に来ているようだった。僕の意識は完全に神霊様と切断されていて、彼らが去るのをじっと待っていた。自分の不甲斐なさや非力を噛み締めていたので時間がぐんと伸びたように感じられた。
それだけ神仏と心を通わす、というのは繊細で注意力が微塵も欠けてはならないものなのです。静けさがすっと戻ると僕はまた会話を試みました。強い風と共に本殿を見て右側にある稲荷社の方へ誘われました。
僕は稲荷神とのご縁により格別の加護を賜っているので、お導きがある際は素直に応じています。稲荷社の前に着くと、その背後にあるご神木がさらさらと揺れだしました。何かな、と思って振り返りながら見上げると龍神様がいらっしゃいました。戸隠神社でお目にかかれたあの龍神様だと気づくのに束の間もかかりませんでした。
以前この品川神社の神域の均整が乱れ、神聖な気を保てていないからもうここもこれまでなのかもしれないと思ったことがありました。その考えを改めさせるかのごとく、これだけ多くの神仏と縁を結んでもらっているのだからその方々とこの品川神社を通して交信することがこの場所への恩恵ともなり得るのだぞ、と力強い言葉を頂きました。
あ、そうか。これが僕の役目の一つでもあるのだ、とこれまでの愚行を恥に思いました。神霊様の所在も大切だが、天界と交差する点に聖域は現れるのだし、その神域は根本的にすべての神仏とつながっているわけだから、参拝しない選択肢はないのだ。そういう思いが広がると、龍神様が吹いた風はおさまりました。
両手で抱えきれないくらいの感謝の気持ちを、語彙が少なく残念ではあったが、知り得る限りの言葉で伝えました。その直後僅かに湧いたのは、本当に全ての神仏とつながっているのか、という疑問点でした。戸隠の龍神様がいらっしゃったのだからもしかしたら天狗様もいらっしゃってるのではないかな、と思っていると、全部で三本あるうちの社務所裏のご神木が揺れだしました。
何を案ずることがあるのだ、と芯のある声が聞こえました。龍神様との会話で悟った内容を裏打ちするような御意志を天狗様はすぐに伝えてくださいました。稲荷社に居る小さな狐の天霊も嬉しそうにはしゃいでいたので、僕も楽しくなって、また本殿の方へ移動しました。
すると神霊様に、ここ数日の間に随分と神域が変容し以前のような不安定さはなくなっていると、教えて頂きました。この状態であれば神霊様も落ち着いて、品川神社の守備範囲である品川界域を守れるとも、おっしゃっていました。
安堵していると、そろそろ帰りなさい、と気遣って頂きました。実は僕の実母は過保護なのですが、どうにも鬱陶しく感じてしまう節が少なからずあるのに神霊様にされる加護はとても嬉しく思います。同音異義なのでしょうね。僕の方も態度の違いがあるかも知れません。
とは言え、神秘的な体験をして身体が火照っていたのでとぼとぼ歩いて帰ることにしました。また訪ねに来ると伝え、参道の長い階段を一段一段降りていくと、国道沿いの雑踏がきらきらと眩しく僕の顔を照らしていました。