厄年はWikipediaを参照[*1]すれば概要は分かるかと思いますが、単なる災難があるだけの年を意味するのでしょうか。厄年は生涯で三度訪れます。二度目に訪れるのを大厄と呼び、その前後の年も用心するようによく言われますよね。
全ての人に、男女差はありますが、訪れます。得体の知れない悪質なものを連想してしまいそうですが、僕は試練の年であるように、いろいろな人を観察していると感じます。
神霊様より上の存在、キリスト教などで絶対神や唯一神と呼ばれ、日本では森羅万象と馴染みのある存在が居まして、その方々は人間の個々それぞれと対話をし生命として誕生する前にその生涯で成すべき目的を定めてくれます。宿命と呼ばれる概念ですね。これは、生きている間に達成すべき大きな目標であるため途中で変えたりすることはできないものです。というか、道を逸れたらいつの間にかに元の道へ誘われてしまいます。
この、宿命を達成するための小さな課題の羅列を運命と呼びます。これはその個の進展具合によって提供される試練のことを指します。折々で理解しなければならないことや体感しなければならないことを神様は毎日・毎分差し出してくれます。
しかしながら、差し出してくれた試練はオファーに過ぎず、その個の自由意志によって受け入れることも拒むこともできます。決して強制はされません。ただそのオファーは達成すべきものであるので一生逃げ切ることはできず、節目で再度差し出されます。同じ課題のオファー数が増えれば増えるほどその達成難易度はあがり、まぁ、大変になっていきます。
厄年というのは、その精算をする年という風に僕は思います。人は完全ではないですから、もしかしたらそういった意識がなくても無意識のうちに逃げていたり拒絶していた小さな課題がいくつもあるかもしれません。そういうものを逆転チャンスではないですけど、持ち越すより一旦けじめをつけましょう、といった具合です。神様は、想像を遥かに上回るくらい慈悲深いのです。決して見捨てずしつこく何度もチャンスを差し伸べてくれます。
逆を取れば、厄年を迎えた時の状態を見ることで自分がどんな風に生きてきたのかが、ざっくりと、分かります。もしアンラッキーな一年だったのであれば、それまで自身に背いて来たと、ラッキーな一年だったのであればそのまま用心して進めば良いと、極端ですがこう考えることで厄年の放つ得体の知れない雰囲気も怖いと思うことはなくなるのではないかと思います。
スピリチュアルなものは科学的に根拠の無いものばかりではありますが、その主体は人の心です。人の心も科学的な観測も双方を認めて、冷静に考えることで精神の質や穏やかさは格段に良くなると思っています。
では、厄祓いの役割とはどういったものでしょうか。端的に言えば、神霊様や仏様と縁を結ぶための儀式です。すでにお分りかと思いますが、厄とは自分の行いに対する因果なので不可避です。そのツケがあまりにも多く陰気であった場合には、もしかすると生命が脅かされる事態が訪れるかもしれません。そういった最悪の事態を自身の意志で「そうはなりたくないので、どうにか容赦ください」と神霊様仏様に祈願し加護を賜るという意味が背後にあります。厄祓いをしたからといって心がそこになければ、何の意味をもなさないということです。
素直に助けを乞うことは意外と難しいんです。その手を受け入れ疑いなく信じ行動することが、もし、これは自分にも言いますが、早くできていればそれの心持ちが必要となるような事態には遭遇しないのです。
どことなく、説法しているような風になってきてしまったので、今回はこの辺りで止めておきます。笑
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